へブル人への手紙の冒頭では、主イエスがどのようなお方であるかが一つひとつ
あげられています。
また、この手紙は主イエスの「ことば」を聞きなさいと何度も語りかけます。
現代は心を傷つける言葉や、罪へと惑わす言葉、また、視覚的に格好のよいものや、刺激的なものが映像や街中に溢れ、家庭や職場にも毎日押し寄せてきます。その「肉の目に見えるもの」、「肉の耳に聞こえるもの」に傷つき、心疲れてはいないでしょうか。あるいは逆にそれが拠り所となってはいないでしょうか。
私たちが見るべきもの、聞くべきものは、肉の目には「見えない現実」であり、肉の耳では「聞こえない神のことば」です。
主イエスはどのようなお方か、ここに書かれたことを信仰の目で見る。
主イエスは何と語っておられるのか、信仰を持って耳を傾ける。
それらは、自分の主張を捨て、この世に自分の力で戦うことを止め、そうしてただ神の前にヘリ下り、ひざまずく時にこそ心の耳で聞くことができ、心の目で見ることができます。
その時、罪のきよめを完全に成し遂げられた主イエスからの平安と、主イエスを復活させた神の力と、天にある喜びが与えられます。この世の目に見えるものや言葉は私たちには何の力もないことを知るでしょう。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。」へブル人への手紙1:3
「あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右の座に着いておられます。」
「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」
コロサイ人への手紙3:1~2
テモテの手紙第一には「敬虔」という言葉が何度も何度も語られています。
神様を敬うこと。そして親や主人など、周りの人たちを敬うことが命じられています。
パウロが「私は罪びとのかしらです。」との有名な告白をしたのはこの手紙においてです。
神様と人を真に敬うことができるのは、自分自身が「罪びとの最たる者」との自覚があってこそといえます。また、「私はあわれみを受けました。」との自覚は、神様の命令に喜んで従えるひとつの重大な動機になります。
テモテの手紙には「敬虔」についての教えが多く書かれています。
教えというよりも、命令です。
命令と言われると、何か縛られるような気持ちになりますが、実は神様の命令というものは、私を苦しめる罪から解放してくれるものです。
神様の命令、律法の背後には、神様の愛と憐れみがあるのをみます。
自分中心の考えが心の隠された根底にあるこの世の中において、表面的なものではない、ほんとうの「敬虔」はどれほどの希望の光になるでしょう。